春告げ抹茶ホイップ

デジタルガーデンについて思うこと

デジタルガーデンという文化が存在する。 これを初めて知ったのは、橋本麦さん[1]と X のスペースとかで昔お話したときに話題に上げてもらったからだったように記憶している。

デジタルガーデンについては以下の記事がよくまとまっていて読むとよく理解できる気がする。

基本的には上記の記事を読んでもらうのが良いと思うが、この記事でも私がデジタルガーデンをどのようなものと認識しているかをメモしておこうと思う。


デジタルガーデン

デジタルガーデンはある種の Web サイトの形態である。 個人の Web サイトなどで、このデジタルガーデンの形式で公開されるサイトがあるようだ。

デジタルガーデンがどのような Web サイトの形式なのかを端的に述べると、公開日付によって厳密に整理されていない未完成を含むメモの集合体であり、各メモはオーナーによって相互にリンクが貼られているものと言えると思う。

重要なのは以下の点だ。

  • 未完成のメモを公開する
  • 記事を時系列で並べない
  • 継続的に成長し続ける
  • 個人が所有権を持っている

デジタルガーデンはブログのような形式と異なり、未完成の記事を許容する。 ブログなどでは完成した整った記事を書くような圧力がかかってしまう。 その記事単体で自己完結した良い記事を書く必要があるように思える。 一方でデジタルガーデンでは未完成状態の記事が許容される。

記事を時系列順に並べないで、記事間のリンクで空間的に配置されるのも 1 つの特徴だ。 空間的なリンクはイメージとしては Obsidian のグラフビューのようなものかもしれない。 X(旧 Twitter)とかブログプラットフォームとか、その他プラットフォームは時系列順に投稿を並べてくる。 時系列ではない自分なりの記事のつながりを作ることは難しく、1 本の時系列にすべての記事が押し込められてしまう。 これに対してデジタルガーデンは、自由にリンク構造を作って自由に記事たちを整理しまとめ直すことが可能だ。

また、デジタルガーデンは継続的に成長し続けるものでもある。 未完成な記事や足りない記事などを少しずつ手入れして、少しずつ成長していく様を楽しむのは、ガーデニングで植物を植えたり剪定したりして手入れするようだ。

そして個人が所有権を持っているのも大事である。 プラットフォームに投稿すると、その投稿が知らないところで表示されることがあったり。 X ではおすすめ欄に勝手に投稿が載ることがあるかもしれない。 note [2]などで記事を書くと、人の記事のあとに関連記事として自分の記事がアルゴリズムの判断で載せられることもあるかもしれない。 自分の記事をどのように見せたいかのコントロールが難しいプラットフォームも少なくない。 それに対してデジタルガーデンは個人 Web サイトとしてすべてのコンテンツをオーナーが所有しオーナーの自由で配置できる。


庭性

デジタルガーデンで重要なもう 1 つの要素に「庭性」とでもいうような性質がある。

庭とは public な空間でありつつ private さもある、という public と private の間の中間的な領域ともいえる。

家の中は完全に個人的な場所で個人が自由にできる。 そしてそれが外部の人の目に触れることはない。

それに対して公共の場の駅とか交差点とか、そういうところで何か展示したり広告を掲載するのは完全に公共的なものであり、多くの人の目につくものになる。 こちらは個人の自由で勝手に配置するわけにもいかないだろうし、あまりに多くの人に望むと望まずと関わらず見せつけることにもなるかもしれない。

一方で庭は、その庭が面している通りから通行人が眺めることはできるが、一方で公共の駅とか交差点とかに展示するのとは違い、自分の空間としてメンテナンスできる場所だ。 庭への訪問者はその庭に手を加えることは許されないし、その庭はその庭のオーナーのものである。 訪問者はあくまで訪問者としてその庭を見ることになる。 公共の展示や広告などと違い、個人的な空間を興味を持った人が見に来ることがある、そういう場が庭である。

人の目に触れる場所という意味では public ではあるが、交差点や駅のような public とは違い非常に個人的なスペースである。

YouTube などのプラットフォームはかなり public な領域である。 アルゴリズムでバズったりすることもあるし、そのバズを狙って多くの人に見てもらうために動画を投稿している人も多い。 多くの人に見てもらうという用途ではその手のプラットフォームは強いかもしれない。 しかし、一旦多くの人に見てもらうということを手放して、興味ある人にだけ見てもらえれば良いと考えると、庭を作ることの心地よさというのは良いものである。


反時系列

デジタルガーデンは時系列を嫌うようだ。

時系列順に何もかも並べられてしまう。 そういう最新投稿フィードなどがある「ストリーム」的な単一の時系列に圧縮されて並べられてしまうプラットフォームに対して、リンク構造でより豊かな構造にメモを並べるというのがデジタルガーデンの重要な点の 1 つのようである。

自分で整理し少しずつ成長させていく場として、時系列の流れという制約から解き放たれるのは思想的に重要なことのようで、多くのデジタルガーデンについて語る記事などで時間軸からの会報を謳うことが多いように感じる。


デジタルガーデンに対する個人的な考え

庭は良い概念だ

庭の public と private の間に自分が管理する場を持つ、というのは非常に魅力的に思える。 世の中のプラットフォームに投稿するだけでなく、自分で自由に維持管理できる場を持つというのは、SNS 疲れとかが問題である現代において大変に良いことであるように思う。

未完成の記事も許容されて少しずつ更新して育てていくというのも素晴らしい思想のように思う。

時系列を嫌いすぎでは?

一方で、時系列をあまり嫌いすぎるのはどうなのだろうと思う。 場合によっては時系列を使った方が素直にまとめられることもある。 1 本のストリームにまとめることが問題だったのなら、網状流のように枝分かれし合流するようなストリームとしてまとめたりするということも考えられると思う。 必ずしも時系列自体を排除することが、1 本の時系列にまとめられてしまうことへの唯一の反抗手段ではないはず。

私は以前に Obsidian のグラフビューについて思うところを書いたノートを公開している[3]。 そこでも述べたように、時間軸がないグラフビューというのはある種の管理の難しさが生じる。 知識を自分専用用語集を作るようにまとめるのであれば時間軸は必要なく、リンク構造で空間的につながっているノート群があればよい。 しかし、思考の流れのような本質的に変化し流れていく時間軸を持ったものを記録するには、時間軸を排除してしまうというのはやりすぎなように感じられる。

メンテナンスにはコストがかかる

デジタルガーデンを常にメンテし続けるのは意外と難しいことである。

デジタルガーデンは未完成のノートを許容する。 これによってブログのように完成したノートしか受け付けないものと違い、気軽にノートを書いて公開できる。 私はそのような認識でいたので、デジタルガーデンは更新のコストがやすくなるという風に捉えていた。

しかし、メンテナンスにはコストがかかるのである。 未完成のノートがどんどん増えていき、それらを適切に常に剪定してメンテナンスを続けるというのは、マメな人でないと難しい。 ある記事を編集して、それを引用している記事もすべて確認して必要に応じて修正して、という感じで自分用の wiki を整え続けるのは常に手を入れ続ける必要がある。 こういう庭いじりを楽しめる人にとっては大変楽しいことだと思う。 メンテし続けて少しずつ自分好みに育っていく。

一方で、メンテナンスし続けて手をかけ続けるのが苦手な人の手にかかると、デジタルガーデンは荒れ果てて雑草が生い茂っていく。 後で描こうと思って記事のタイトルだけ書いたノートが放置されていたり、最新情報に更新されないまま放置されたノートが残り続けたり。

ズボラな人間にとって、常に手を入れ続けてメンテナンスを続けることを要求するデジタルガーデンには難しさがある。 ズボラな人間にガーデニングは難しいのかもしれない。


デジタルガーデンではない形

私のこのノートが置かれている Web サイトは、Web サイトを改修[4]して以降、2026 年 8 月現在ではデジタルガーデンの形ではない。 個人 Web サイトを作って管理するのは、デジタルガーデンの庭性の個人的な public 領域という考え方に影響を受けているわけだが、しかしデジタルガーデンそのものではない。

この私のサイトはデジタルガーデンとは違って時系列を復活させている。 そして時系列は 1 本のストリームとしてではなく、引用ネットワークによって複数の流れが分岐したり合流したりする様子として表現されている。

個人的にはデジタルガーデンよりこちらの形態の Web サイトのほうが扱いやすく更新しやすく感じている。 この Web サイトの形態とそのコアアイデアについてはまた別の記事で詳しく述べようと思う。

References

  1. 1. 麦 ⌇Baku (@_baku89) on X
  2. 2. note ――つくる、つながる、とどける。
  3. 3. Obsidianのグラフビューを得意ではない話
  4. 4. ブログを改造した